跳ねる鼓動に甘いチョコレートを 


 テーブルの上にはラッピングに使う包装紙に色とりどりのリボン、それからチョコレート。ココアパウダーをまぶした丸いトリュフは既に箱に詰めている。
 それらを前にして仁王立ちし、腕を組む。そして明日を想像して頭を抱えた。これを明日、ローに渡す。バレンタインに、チョコを。

「無理!!!」

 手作りなんて学生の時以来だし社会人になったからには手作りではなくちゃんとした既製品の方が良かったのではないだろうか。今はお金だってあるし学生には悩ましい少々値の張る高級チョコレートも買えないことは無い。ロー自身両親が医者で院長なんていうハイスペックな家に産まれたからには舌も肥えているだろうし、私の手作りなんて口に合わないのでは。
 材料を買い、作っている最中も散々繰り返した自問自答を更に繰り返す。
 シャチとペンギンと前に飲んだ際聞いた彼女からの初めてのバレンタインは手作りがいい! という話を鵜呑みにした結果がこれだ。

「やっぱり今からでも買いに行ったほうが……」

 オロオロしながらひとまずラッピングくらいは済ませておくかと丁寧に包装紙で包んでいく。リボンで飾るのは手が震えすぎて三回失敗した。
 しゃがみこみ、テーブルに頭をつける。甘いチョコレートの香りが漂うリビングで不覚にも泣きそうになった。なんだって明日デートの約束なんてしちゃったんだろう。
 もちろん会えるのは嬉しい。会おうと言ってくれたこと自体が嬉しいし、私も迷わず二つ返事をした。問題はバレンタインという浮かれたイベントにある。バレンタインに会うからにはせめてチョコレートの一つくらい渡すべきではとなけなしの乙女心が頭をもたげたせいでらしくない奇行に走る羽目になってしまった。
 明日はまず映画に行って予約していたランチのお店へ。それからローに服を見繕ってくれと言われたからショッピングモールをぶらぶらする……予定。
 楽しみなのに明日なんて来るなと祈りながらの一日はとてつもなく長かった。
 


 

 映画館のあるショッピングモール。その入口に立つ柱時計の下。待ち合わせ場所には約束の三十分前に着いてしまった。現在上映中の映画のポスターが壁にずらりと貼っており、その中にはローが観たいと言っていた映画のポスターもある。ぼうっと眺めながら所在なく手荷物をいじった。緊張しすぎて今日観る映画以外にどんな映画が上映されているのかまるで頭に入ってこない。
 あの後結局既製品のチョコレートも買いに走った為、手元には紙袋が一つと普段より少し大きなバッグ。手作りの方のチョコレートはバッグの中にある。せっかく作ったのだから渡したいという淡い想いと自分の中の羞恥心が対立し、考えた上でどちらも持っていくという結論に達したが故の行動だったがこれは悪手だったかもしれない。
 いっそ帰ってしまいたい思いを押し殺して腕時計を確かめるともうローがいつ現れてもおかしくない時刻になっていた。ローと付き合いだしてからこんなに緊張するのは初めてかもしれない。

「早いな」

 辛うじて声は出さずに済んだものの、後ろから声をかけられ肩が大袈裟に跳ねた。改めてローに向き合うと益々手に持った紙袋がなんだか照れくさく感じ、すぐバレるのに咄嗟に背中に隠した。

「あ、うん。今日ローから誘ってくれたし、観たい映画ってどんなのかなって気になっちゃって」
 
 隠した物を訝しむ様子のローだったけれど特に触れず話題は次へ進む。話しながらも私の頭の中は手に持ったチョコレートのことでいっぱいだ。
 これっていつ渡せばいいんだっけ。今渡した方がいいのか、でもそれだと荷物になるし別れ際? うんうん頭を悩ませているとローに体調でも悪いのかと心配されてしまったので慌てて誤魔化す。
 ローは不服そうだったけど突っ込まず、いつも通り手を差し出してくれた。差し出された手に素直に手のひらを重ね、指を絡める。右手に全神経が集中して顔が熱い。――社会人にもなって。付き合って半年以上経つのにまだ慣れない。顔で好きになったわけではないけど何もかもがかっこよくて慣れる日なんて到底来そうにない。髭の生えた男性は好きじゃなかったはずなのに、ローが相手だとなんでかかっこよく見えてしまうから不思議だ。
 映画はローが予約してくれていたおかげですんなり中に入れそうだった。チケットを発券してジュース片手に劇場内に入る。ショッピングモールと比べ暗い空間に今から見る映画へ思いを馳せた。ローが持っている小説シリーズの劇場版。私も横から覗き見るうちに気になってつい全シリーズ揃えてしまった。ローには言ってくれれば貸したのにと笑われたけど、家にローが持っているのと同じものがあるというのは中々幸せな気分になれるのだ。
 横では珍しくソワソワしているローがいて、つられて私も落ち着きがなくなってしまう。ローの目線が一瞬私の持つ紙袋にいってすぐにスクリーンへうつった。
 そりゃ見慣れない紙袋があったら気になるかと内心冷や汗をかく。ローがバレンタインを知らないはずがないし。かといって映画が今にも始まるというこのタイミングで渡すのは変だろう。そうなるとランチの時が自然だろうか。目の前で開けられるとなると恥ずかしいからやっぱり帰り際に渡すのは駄目かな。

 
 ◆
 

 待ち合わせ場所に着いた時、持っている紙袋が目について以来ずっと落ち着かない。あまりイベント事に興味を示してこなかったが、今年は偶然にも十四日が休みだったため軽い気持ちで誘ってみただけだった。最初は。だがいざバレンタインに会ってみるとなまえの手に持っているものが気になって仕方がない。バレンタイン当日に周りの男共が落ち着き無くしているのを小馬鹿にしてきたが今度からは出来なさそうだ。なまえからバレンタインのチョコがもらえるかもしれないというのは想像以上に落ち着きを無くす効果があるらしい。おかげで観たかった映画も内容がまるで入ってこなかった。その後入ったランチの店でも味が分からなかったし、せっかく選んでくれた服をどう? と聞かれても上の空でしか返してなかった気がする。自分から誘っておいてこの態度では愛想を尽かされるかもしれないので気を引き締めたいのだが如何せんチョコが気になって集中できない。シャチやペンギンから上手いこと手作りチョコをもらえるように誘導しておきましたよ! と下手くそなウィンクを向けられたのを思い出す。
 彼女の持つ紙袋は確かドイツで有名なチョコレート会社のものだったか。あの中に手作りのチョコが入っているのか既製品なのかは定かではないし、あまり手作りばかりを期待して妙なプレッシャーを与えてしまうと今後もらえなくなってしまうかもしれないのでどちらを渡されても平常心を保てるように意識はしていた。だが夕方に差し掛かってももらえる気配が一向にないため平常心も徐々に保てなくなってきている。まさかなまえに限って他の男に渡す用に持ってきているなんてことは無いだろうが、ではその紙袋はなんなのか。おれに渡さないつもりなら何故持ってきているのか。
 こちらから問いただすのも違う気がして押し黙っていたがいよいよ帰るという段階になって我慢の限界を迎え、改札に向かうなまえの腕を掴んで呼び止めた。

「ロ、ロー?」
「悪い、まだ時間あるか」
「ある、よ……」

 腕を掴まれ俯いたなまえがちょっと泣きそうになっているのは気のせいではないだろう。人が行き交う駅構内で話を続けるのも憚られ腕を掴みタクシー乗り場へと足を運ぶ。呼びかけてくるなまえを無視してタクシーに乗り込みおれの自宅へと移動した。マンションのエントランスを抜け部屋に入り珈琲を出してやる段階になってもなまえはピクリとも動かない。こういった時は急かさないのが得策だろうと敢えていつも通りに振舞った。

「ごめんね、私今日変だったかな」

 突如謝られ瞠目する。それはこちらの台詞だというのに。今日一日の記憶が曖昧なのは紙袋に気を取られすぎていたからだ。それはつまり一緒にいたなまえへの態度も曖昧なものになっていたという事。謝るべきはおれの方だ。

「いや、おれが……」

 たかが紙袋ひとつ。なんでもない振りをして聞けばいいだけ。頭では分かっていても上手い言い回しが出てこない。苦手なはずのブラック珈琲を口にし、顔を顰めるなまえを宥める。置いていたミルクと砂糖を入れるのを忘れるほど別の何かに気を取られているらしい。代わりにミルクとスティックシュガーを入れてやり、かき混ぜていると意を決したような表情のなまえが紙袋から丁寧に包装されたチョコレートを取りだした。

「これ……」

 微かに震えた手で渡されるそれにおれは心の内で誰かに自慢した。これを求めていたのだ。別れ際になっても渡されないから紙袋の中身がチョコレートだというのは思い違いかとも思っていたが、あっていたようで安堵する。最早手作りだの既製品だのはどうでもよかった。空けていいかと確認し、丁寧に包装を剥がす。出てきたのは黒のエナメル質の箱。ラメの入った金の文字でブランド名が記されている。早速複数入ったチョコのうちの一つを口にしようとすると何故かストップがかけられた。

「ごめん、やっぱり待って……」

 手を掴まれ箱ごとチョコを取り上げられる。呆然と遠ざかっていく箱を見送っているとカバンからまた別の包装紙に包まれた箱が取り出された。先程のものより一回りほど小さいそれをそっと手渡される。なまえの様子からチョコレートを奪い返すより先に差し出された箱を受け取る方が得策と判断し、促されるままに黄色いリボンを解いた。

「ごめん。既製品の方が美味しいと思うんだけど、やっぱりせっかく作ったから……」

 俯きボソボソと言い訳を繰り返すなまえを引き寄せ我慢ならず腕の中に閉じ込めた。今日一日落ち着かないのはお互い様だったのだろう。チョコレートを渡す渡さないで迷って腹を括ったかと思えば今度は既製品を渡すか手作りを渡すかでも悩むいじらしい彼女を愛おしく思わない男などいない。
 ――手作りチョコをもらえるように誘導しておきました!
 シャチやペンギンにここまで感謝したのは初めてだった。手作りなんてよほどお菓子作りに長けていない限り既製品には劣るだろうに何故世の男はもらいたがるのか長年疑問だった。だが、いざもらう側にまわりようやく気持ちが理解出来た。なまえからとなるとこうも嬉しいものなのか。問題は味ではなく誰が誰のために作ったかだ。紛れもなくおれのためになまえが作ったチョコレートに浮かれる気持ちを隠しきれそうになかった。

「食っていいか」
「あ、もちろん。お口に合うか分からないし、不味かったら残しておいてくれていいから……!」

 誰がそんな勿体ないことするかというのはなまえには伝わらないのだろう。緊張の面持ちでこちらを見つめるなまえを横目に箱に詰められたトリュフを口に運んだ。おれのためにか甘さが控えられたチョコに言いようのない多幸感を覚える。不安そうななまえにキスを落とした。

「美味い」
「ほんと? 良かった……」

 やっと見せてくれたなまえのほっとした笑顔に苦笑を漏らす。まったくとんだイベントだ。誕生日の時やクリスマスの時だってこんな緊張感はなかった。

「最初既製品渡されたからビビった」
「これは、その……手作りだと重いかなと思って買っておいた予備というか」
「なら、それもおれの為に用意したもので間違いねェな?」

 頷くのを確認し、取り上げられたチョコの箱に手を伸ばす。これももらっていいかと聞くと無心で首を縦に振られた。照れて顔を真っ赤にしたなまえに気分は上向きになる。何故か正座をして固まるなまえを引き寄せ柄にもなくキスの雨を降らせるにいたったのはこの甘ったるい空気のせいだ。


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